2005-11
22 件のログがあります。表示 : 11 - 20 / 22
2005-11-18
智恵子の紙絵
今日は雲ひとつない素晴らしい青空。ぽかぽかとした小春日和に近所の猫たちも気持ちよさそうに日向ぼっこをしています。
絶好のドライブ日和!光の粒子が飛びかうまばゆい空の下、「高村智恵子 紙絵展」を見るために大磯まで車を走らせました。
もう大分前・・・2001年9月のこと、津村節子さんがお書きになった『智恵子 飛ぶ』を読みました。それまでの私の智恵子に対する知識はといえば”『智恵子抄』で有名な高村光太郎の愛妻”・・・といったものでしかありませんでした。
智恵子が光太郎と同じく芸術家であり洋画を描いていたということ・・光太郎に対する愛情と彼の才能に対する嫉妬とのはざ間で苦悩していた一人の女性であったということ・・そして彼女の凄絶な人生をその本を通じて初めて知ったのでした。
智恵子は明治19年、福島県安達町の酒造業を営む旧家の長女として生まれます。才色兼備というのでしょうか・・・勉強も、運動も、そして容貌にも恵まれた彼女は学校でも目立つ存在であったようです。
やがて日本女子大に入学し油絵に興味を持つようになり、卒業後も東京に残って洋画家の道を目指しました。平塚らいてふらが創刊した「青鞜」の表紙画を描くなど、若き芸術家として活躍。やがて知人の紹介によって高村光太郎と出会い結婚。しかし苦しい窮乏生活、自身の病弱、心の支えであった生家の没落などが重なって、次第に精神を病んでいき(精神分裂病だったということです)、その後の人生を病院で過ごすことになるのです。
この病院時代に智恵子は多数の紙絵を生み出しました。はじめはお菓子の包装紙のようなもので作っていたようですが、そこに才能を見出した光太郎が美しい千代紙などを与え、はじめは単色だったものがやがて色彩にもこだわるようになり、その作品数は千数百枚にも及んだといいます。
光太郎いわく、その紙細工は「立派な芸術品」であったそう・・・洋画では芽のでなかった智恵子ですが、その才能は皮肉にも精神を病んだ後に開花したのでした。そんな彼女の作品を日本広告写真家協会顧問であり、智恵子のおいでもある高村 規さんが複写し、復刻させたものが今回の紙絵展の作品です。独特な技法で色紙のざらざらした部分までも写真で再現しています。本物の作品は長い年月を経て痛みが激しいそうですが、高村 規さんがこの素晴らしい芸術作品が消滅してしまわぬよう・・・後世に残るようにと制作されたそうです。
精神を病んでもなお才能をほとばしらせていたという智恵子・・・。その作品とはどのようなものであったのだろうか・・・。かねてからそう考えていた私は新聞で今回の作品展の開催を知り、旧友に会うような気持ちでここ大磯の地にかけつけたのでした。
作品は写真撮影禁止ですが、全体を撮るのはOKとのことで、館長に撮っていただきました。
4年少しの歳月を経てやっとめぐりあった智恵子の作品。”出会い”を感じて一点お買い上げをしてしまった私なのでした。我が家にやってくるのはポストカードにも紹介されている「ガラス器の中の野菜」。後日届くのが楽しみです
2005-11-17
昼下がりのランチ
今日は一月半ほど前に会社をお辞めになった元同僚のお友達と久しぶりにお会いして、楽しいランチのひと時を過ごしました。
お店は私が通勤途上でその前を通っていた可愛い外装のビストロ。ちょっと気になっていたこのお店にお友達をお誘いしました。石造りのお店の前には季節のお花がきれいに飾られていて、中からはいい匂いがただよってきそう・・・。そんなこのお店を、ずい分前から「いつかいきたいな・・」と思って見てきたのでした。
今日は予約客でいっぱい。地元の方達に人気なのでしょう。お店の中はおいしそうな匂いと、お客さん達の楽しそうな会話の声。その空間にはほんわかとした幸せが、匂いとともにただよっているようでした。
昼下がりのひととき、時間がゆったりと流れるなか、心のおもむくままに久しぶりに彼女とお話できたのでした。会社にいた頃は仕事の話ばかりで、あまり深くは存じ上げなかった友人。そんな彼女と家族の話、生い立ちの話、感じていることのあれやこれやをお話していくうちに、ジグゾーパズルのピースが埋まっていくようにその輪郭が整ってきて、「ああ、素敵なかただな・・」と改めて感じ入ったのでした・・・。
2005-11-15
ロイヤル・ウエディングの日
今日はどんよりとした曇り空。いちだんと冷え込んで、冬の訪れがもうそこまで来ていることを感じさせます。
インコたちにとっては苦手な冬です。なにせルチノちゃんの出身地はアンゴラからナミビアにかけての南アフリカ。ピーちゃんもオーストラリア出身です。日本の冬はそんな彼らにとって過酷でないはずはありません。最近は温かいポットや電気の上にじっとしていることが多くなってきました。
それでも私が家にいる日は嬉しいのか、とても元気でやんちゃなルチノちゃんです。
さて今日は紀宮様のご結婚の日。皇室ファンというわけではないのですが、家にいましたのでテレビで拝見しました。滅多に拝見できるものではありませんものね!12日の宮中では十二単のお姿で(よくお似合いですね)拝礼なさっていましたが、今日はとってもシンプルで、光沢が美しい白いドレス・・・。少し意外にも感じましたが、そのいでたちがお人柄を表しているようにも思われました。そして披露宴では美智子様がお召しになったという薄曙色のお着物姿。こちらもぽっと温かい灯がともるようなお綺麗なお姿でした。
ところで、宮中歌会始めに出席したことのある、母のお友達がこう尋ねたそうです。
お友達 「だれが一番きれいだったと思う?」 母 「さ〜美智子さま?雅子さまかしら、それとも紀子さま?」 お友達 「それが紀宮様なのよ!何ともいえない上品さで一番美しかったわー!」
このお話も失礼ながら少し意外な思いで聞きました。しかし考えてみれば当然のことかもしれません。一般人とは大きな隔たりのある深い、深いお堀の内側でお育ちの、謂わば”究極の深窓のご令嬢”なのですから・・・。
女の天皇が認められれば、民間人になられる最後の内親王になる可能性もあるとか。 皇室もどんどん変わっていく時代なのですね。
2005-11-13
動物達との思い出 (その2)小鳥篇
さて、前述したように初めて一緒に暮らした動物は一匹の雑種犬、ポチでした。その後ポチと暮らした神戸での3年間の中で、縁あって一羽の手乗り文鳥を飼う機会に恵まれました。今回はその文鳥との思い出を書こうと思います。
その鳥は迷い鳥でした。どこからともなく飛んできて、母の知り合いが保護していたのを我が家が貰い受けてきました。よく人馴れしていて、手に乗る愛らしい鳥でした。文鳥でしたので、「ぶんちゃん」と名付けました(こうしてみると我が家のネーミングはいつも単純です )。
うちに来た時はポチがやきもちを焼いて大変でした。一度飛んでいるところをキャッチしてガブッとやったことがあります。厳しく叱りましたので、それ以降はありませんでしたが・・・。基本的には犬は外、鳥は中、で飼っていましたから、ポチは屋内で飛ぶぶんちゃんをちょっと悲しげに窓の外から見つめているのでした。
ところで文鳥にはインコとは異なり求愛ダンスというものがあるようです。放鳥すると必ず鏡の前に行き、ピョンピョンとダンスしながら独特の節で歌をさえずります。それが求愛行動だということは知りませんでしたから、奇妙な鳥だなあ・・・と面白がって見ていたものです。その行動は幼い私にとって非常にインパクトがあり、歌の節は今でも覚えていて口ずさむことができるほどです。
当時母が家の中で放鳥するのを嫌いましたので(汚れるからだったんでしょう・・・)、ぶんちゃんの放鳥は母に隠れてこっそりと行いました。たまに外に出られるものだから、とても張り切ってびゅんびゅんと部屋を飛び回っていたのを覚えています。
それから卵の黄身が好きで、ラーメンの具として入っている黄身を好んで啄ばんでいたのも印象的です。
3年間の神戸での生活が終了し横浜に戻る時、ぶんちゃんは貰って下さるという知り合いに託しました。昔のことですので、連れて帰るのに犬も鳥も・・・というわけにはいかなかったのでしょう。その時のお別れが悲しかったか・・・というと実はよく覚えていないのです。薄情なようですが案外あっさりとお別れしたように思います。
そんな短い手乗り鳥とのふれあいでしたが、その時の”手に乗る鳥”の楽しさ、愛らしさはしっかりと記憶に刻み込まれました。後々手乗りとしてインコのひなをお迎えし、育てることになったのも、その時の思い出があったからだと思います。
以上が私が実家で過ごした子供時代に家で生活をともにした動物達との思い出です。たくさんの動物と暮らす・・・というわけではありませんでしたが、動物好きの私にとっては貴重な経験でした。
最後に父の話をすこし・・・。 元来父は動物が好きなようで、私はその遺伝子を受け継いだものと思われます。父は独身時代たくさんの動物達に囲まれて生活していたようです。昔は身近な所に鶏がいたり猫がいたり・・・と動物がたくさんいるということが当たり前だったようですね。父もそんな育ち方をしたようです。中でも印象的なのは伝書鳩の話です。
父は弟達と鳩をたくさん飼い、伝書鳩に仕込んだそうですが、戦争のためだったのでしょうか・・・詳細は分かりませんが、鳩を手放さなければならなくなり、一気に外に逃がしたそうです。すると数日してその鳩たちが仲間を連れて戻ってきてしまい、前以上にその数が増えてしまった・・・ということです。そんな笑い話のようなお話、あんな、こんなの動物達のお話を父から聞くことが私は好きでした。
純粋で・・無垢で・・愛情にあふれた生きものたち・・・。 私はやはり動物達が大好きです。これからも人生の大切な伴侶としていつも彼らと寄り添って生きていけたら・・・そう思うのであります
2005-11-12
動物達との思い出 (その1)犬篇
今回は私が子供時代に家で飼っていた動物達について書いてみたいと思います。
私は幼い頃より動物好きであったように思います。子供時代の愛読書には、お定まりの「ルパン」、「ホームズ」のほかに、「シートン動物記」がありました。その中に出てくる野生動物たちの孤独で誇り高い姿に魅かれて、何回も読み返した記憶があります。
そんな私が初めて家族として一緒に過ごしたのは一匹の雑種の犬でした。名前はポチ。当時まだ6歳だった幼い私が「ここほれ、わんわん・・・」のお話から単純に付けた名前でした。
ポチは知り合いのお宅で、コリーである母親と雑種犬である父親との間に生まれました。母親似の兄弟達はみなもらわれて行きましたが、父親似の彼だけが残ってしまい、我が家が貰い受けることになりました。
幼い頃のポチはとてもやんちゃ・・・よく外に置いてあるサンダルをかじってボロボロにしていたのを覚えています。私は犬が飼いたくてたまらなかったので、狂喜してこのやんちゃな犬を愛し、同い年の友達のつもりで毎日彼と戯れました。
それから1年ほどして、父が神戸に転勤になり、一家してかの地に転居することになりました。私達は新幹線で神戸に行きましたが(私にとっては初めての新幹線!)、ポチは引越し業者のトラックの荷台に乗せてもらって神戸まで移動することになりました。
そのときの事は強烈な思い出として私の中に残っています。荷台に乗せられた彼の悲しげな顔・・・。トラックが私達から離れていくときの「キャイーン、キャイーン」という悲痛な声・・・。トラックが遠ざかっていく中、その声は小さくなり、小さくなりしていつまでも尾を引くように悲しく耳に響きました。また向こうで会える、と分かっていてもとても悲しかった・・・。あとで業者さんに聞いたところによると、彼はえさを与えられても喉に通らず、水しか飲まず、ずっと元気がなかったそうです。
さて、一足先に神戸の家に着いた私達はポチの到着を今か今かと胸はずませて待っていました。当時は移動にトラックで丸2日はかかったように思います。荷物とともに到着した彼は、また会えるとは思っていなかったのでしょう・・・しっぽをちぎれんばかりに振って大喜び。そんな思いは私達も同じ・・・抱き合って喜びました。
このようにして再会を果たした私達はこの地で3年間を過ごしました。その間に彼はやんちゃな子供時代から、思慮深い青年へと成長したようです。この3年間には色々な思い出がいっぱい詰まっています。
<一緒に登った須磨アルプス・・・臆病な彼は断崖絶壁に尻込みし、抱っこして登山したこと>
<須磨海岸ではやはり波におびえ、震えていたこと>
<病気になり生死をさまよっていた時、私達姉妹が隣町まで買いに行った初めての牛肉を喜び震えながら食べて、無事に死の淵からはいあっがったこと>
<学校給食のパンが嫌いで、与えてもこっそり隠れて裏庭に埋めていたこと。でも鼻面に付いた土でそれと分かってしまい、家族みなで大笑いしたこと>
思い出は尽きません。そんな楽しい3年間を過ごした後、また父に辞令が下り、横浜の元の家に戻ることになりました。私が11歳、ポチが5歳の時のことでした。移動は前と同じように、業者さんのトラックに乗せてもらうことになりました。
トラックの荷台に乗った彼は、不安そうではありましたが、それでももうなきさけぶことはありませんでした。3年前のことをしっかりと覚えていたようです。また会えるということを理解しているようにも見えました。その賢さに心底感動しました。 <また会えるよ、心配しないで> 心の中でそう呼びかけました。
横浜に戻った彼には、前にこの地にいた時のような天真爛漫なやんちゃさはもうありませんでした。それは彼が大人になったことにもよるのでしょうが、神戸にいた時に大病していたことが大きな原因でした。
病からは立ち直ってはいたものの後遺症が残り、興奮すると心臓に大きな負担がかかって、ばったりと倒れてしまうようになってしまったのです。お出かけをした私達が家に帰ってくると大喜びするのは良いのですが、そのあと興奮がすぎて昏倒してしまうのには困りました。それでも当時は今のようなペットブームではなかったのでしょう・・・医者に診せる事もせずに自然に任せていました。
戻って1年半が過ぎたころ、彼がめっきりと弱ってきました。私は中学1年生になっていました。そのころには医者にも診せたりしていたのですが、薬をもらうものの何の打つ手もなく、弱っていくのを黙って見ているよりほかありませんでした。
初夏のある日のこと、学校から戻ってくると彼はすでに冷たくなっていました。最期の時に一緒にいてやれなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。母が看取ってくれたのがせめてもの救いです。まだ死後何時間もたっていないのに、死臭が漂っていたのでしょうか・・・その口に既にハエがたかっているのを私はただ呆然と見つめていました。手でそのからだに触れて、 「可愛そうに・・・最期にいてあげられなくてごめんね。今までありがとう!」 と撫でてあげたかったのですが、なぜか触れることができませんでした。初めて見る屍というものが怖かったのでしょうか・・・ショックが強すぎたのでしょうか・・・。それが今でも心残りになっています。
夕刻、私達は庭に穴を掘り、お花や思い出の品、お手紙などと一緒にポチを埋葬しました。なぜかよく覚えているのはその日の晩ごはんがカレーだったことです。私の大好物だったカレー・・・でも悲しみに胸が塞がれて食べることはできませんでした。6年少しの短い生涯でした。大病をしなければもう少し長生きできたのではないかと思うと残念でなりません。それでも家族みなに愛されたポチ・・・きっと幸せな一生だったと信じています。
今でも私のうちの庭には(私は建て替えた実家に住んでいます)ポチと、それから一昨年亡くなったチコちゃんが静かに眠っています。そんな彼らに守られてやすらかな日々が流れているのだなあ・・・としみじみ感じる瞬間があります。
私達にたくさんの愛情を与えてくれた小さな動物たち・・・その思い出を感謝の気持ちとともに大切に守って生きていきたい・・・そう思うこのごろです。
2005-11-09
インコ達との一日
今日も素晴らしい秋晴れ。抜けるような青空です。その美しい色彩に感嘆!写真や絵などで美しい色は数多く見てきましたが、自然界の色の美しさほど感動を呼ぶものはないように思います。空気も澄んでいるのでしょう。富士山もくっきりと見えました。この日本を感じさせる美しい山を見ることは、今や私のお楽しみの日課の一つになっています。
さて今日は仕事もお休みでしたので、インコたちとのんびり、まったりと一日を過ごしました。
今日お買い物の時に花屋さんで
ピラカンサ
を衝動買いしました。赤と黄色の実が愛らしく、ちょっとクリスマスっぽいのが目を引きました。この実は小鳥達の大好物なのだそうです。ルチノちゃんにご対面させたところ、「キャー、いや!これ嫌い!」と言って(多分言ったと思います)逃げていってしまいました。見慣れないものはちょっと嫌いなルチノちゃん・・・きっとおいしいのにね
2005-11-06
ペット・ヒーター入りました
昨日までの陽気とは一変して今日はぐっと寒くなりました。予報通り午後からは雨が降り出しました。一雨ごとに季節は進んでいくのでしょう・・・冬本番も間近です。
重い腰を上げて、やっとペット・ヒーターを入れました。それに先立って先日長男がインコ達のケージを2時間もかけて掃除してくれました。完璧な仕上がりに「う〜ん・・・」と感心!いつもはずぼらだと思っていた長男の完璧主義の一面を見る思いがしました。隅々までピカピカのケージにインコ達もとても気持ちよさそうです。
ピーちゃんは”かごの鳥”ゆえか見慣れないものを入れると怖がるため、今まではヒーターを入れていませんでした。しかし最近は大分”手乗り化”しているようなので、もう入れても大丈夫かもしれません。新しいヒーターもピーのために買い求めようかと思っています。
それから前に購入しておいた新しいおもちゃも引っぱりだしてきました。せっかくきれいになったので、おもちゃも以前のものと交換です。これはペット・ショップにいたこざくらインコがとても気に入っている様子で、ずっとこのおもちゃの上に乗りっ放しだったのを見て「うちの子にも・・・」と購入したものです。気に入ってくれるといいのですが・・・
それから今日はいいことも一つ。次男がソフトテニス部で県大会に進出。今日その大会が小雨ふる中行われました。試合では1回戦は突破したものの、2回戦で惜しい負けを喫したようです。でも「”県”に出られるだけでもすごいよね・・・!」とまたもや自己満足に浸っている私なのでした
2005-11-04
大人の遠足
今日は長男の高校・PTA主催の社会見学に参加。東京タワーや浅草などお江戸東京を散策し、のどかな一日を過ごしました。このような機会は子供達の小・中学校時代に毎年あったのですが、参加するのは今回が初めてです。「遠足」気分でちょっと胸わくわくです。
まず8時に学校集合。一緒に申し込んだ2人のお友達と合流。バスにて一路東京に向かいました。10時半頃東京タワーに到着。子供達がまだ幼かった頃に行って以来、本当に久しぶりです。今日は平日なので混雑も無く、ゆったりと東京の町の眺望を楽しめました。
タワー見学後は浅草に向かいました。葵丸進さんで「江戸前天婦羅定食」の昼食。いつものお昼は粗食なので何だかとてもリッチな気分・・・。おなかも整い、いざ浅草の町へと繰り出します。
浅草のおいしいコーヒーも飲んで、”真っ赤な橋”で有名な吾妻橋に集合。ここより隅田川を水上バスで遊覧です。そよ吹く風の中、船の揺れも心地よく午後のひと時はゆったりと流れていきます。
約45分のクルーズを楽しみ、日の出桟橋に到着。ここよりバスにて帰路に着きます。 バスの中ではビンゴ大会。(私もマーブルチョコのシャーペンを当てたぞ!)そしてひとしきりおしゃべりの花が咲いた後、皆さんうとうとと夢心地の中、バスは我が町へと向かって行きました。
今日は暑からず、寒からず、天候にも恵まれた中、「大人の遠足」を堪能いたしました。この2日間、文化の日にちなんで「文化的な過ごし方をしたぞー!」と自己満足に浸る私なのでした
2005-11-03
今日はコンサート日和!
今日は横須賀市文化会館大ホールにおいて開催された逗子開成学園吹奏楽部OB会演奏会に行きました。夫がOB会メンバーとお友達だったご縁でのコンサート行きです。
谷 啓さんも出身であるという同学園吹奏学部は昭和3年「振武隊」と命名され発足し、現存する日本のスクールバンドとしては最古の伝統を持つということです。昭和56年全日本吹奏楽コンクールでの金賞をはじめとして、数々のコンクールでの受賞経験を持つ伝統校です。
OB会ができたのは最近のことだそうで、今回が第1回のOB会演奏会でした。12才から60才代までのOBと現役吹奏楽部員が一堂に会しての素晴らしい演奏会になりました。
今日は「文化の日」にふさわしく音楽に親しんだ楽しい一日になりました
○ルチノちゃんとサークル
これはルチノちゃんがペットショップにいた時に乗っていたサークルです。ここにじーっとおとなしく止まっていて、通る人はみな「かわいい、かわいい!」となでたり手に乗せたりしていました。
家に連れて帰るとき、急に環境が変わるとストレスになるかもしれない・・・と思いこのサークルも一緒に購入したのでした。ルチノちゃんのお気に入りだと思ったからです。
お迎えした翌日、家族はみな出かけ私一人・・・。お掃除などの間このサークルに止まらせていました。羽をクリップしてあり飛べないこともあったのか、半日じーっとしていました。まったく動かず鳴きもせず、おもちゃの小鳥が止まっているようでした。
家事が一通りすんで手に止まらせると、洋服に飛び移りススーッと襟元にあがってきてそこでずっとじーっとしているのです。これが何日も続きました。当初私はそんな様子からルチノちゃんを「ブローチちゃん」と呼んでいました。
結局このサークルを使ったのは一日だけ。あとは嫌がって止まりたがりません。今や無用の長物となってしまいました。今日思いついて久々に止まらせてこの写真を撮りましたが、このあと「いや〜ん」と言って(言ったと思います)飛んで行ってしまいました。
それから、ずいぶん長い間ルチノちゃんは声を発することがありませんでした。初めて鳴いたのはお迎えして二週間ほどたった頃でしょうか・・・。耳元で鳴かれてびっくり。意外に大きくって、セキセイとは違った鋭い声だな・・・と思いました。でもその声がまた可愛らしく、好ましく思えるのですから、まったくもって親ばかですね。
○ルチノちゃんはお水が好き
子桜インコはセキセイとは異なり(セキセイはそんなにお水は飲まないみたい)お水をよく飲みます。口元にお水の入ったカップを持っていってお勧めするとまず断ることはありません。必ず飲んでくれます。水道の蛇口から直接飲むのも好きです。飲みながらからだを膨らませて、ぶるっぶるっと水浴びをしたそうにするのですが、臆病なのか中々からだを突っ込んできません。
ルチノちゃんは私の追っかけでトイレにもついて来ますが、トイレのお水を飲むのも好きです。たまにここで頭だけの水浴びをしたりもします。
そのあとトイレ窓枠に飾ってあるミニュチュア香水の瓶を落っことすのがいつもの日課です。